2021年01月08日

住宅すごろく 始まり

東京での、かなりイレギュラーな別居新婚生活は、夫が事務所を辞め、そのころ、私も大学院を修了して、二人とも清水に移ってきたことで終わった。

その後の私たちの住宅遍歴は、いわゆる「住宅すごろく(※)」そのものをたどることになる。
そんなことを、思いつくままに書いてみる。

清水での生活の始まりは、草薙の民間賃貸住宅。1階に4戸、2階に4戸 2DKのこじんまりした部屋が並ぶ軽量鉄骨造(プレファブ)の2階に部屋を借りた。
このアパート周辺環境はとても良いのだが、住宅としての機能はちょっとおそまつだった。お風呂は一畳程度の広さ、脱衣場はなく、DKで脱衣する形式、トイレは水洗だが、これも、DKから直接入る形式。玄関はDKに直結。外廊下からDKが直接のぞけるような形式で、6畳の部屋も、どうみても、1畳の大きさが、団地サイズよりさらに小さい。(実際に、この部屋であつらえたカーペットを、次の住まいである県営住宅の6畳間に敷いたら、縦横とも10cmくらいづつ、隙間ができた)
だが、全室南向きで、アパートの前には空間がとってあり、その前は畑で、廻りには市民農園や茶畑が点在する気持ちの良い環境だった。
雉が時々、畑を歩いたりしていてのどかな雰囲気で、東京の狭苦しい環境に辟易していた私も夫も気に入っていた。

他の部屋への入居者は、私たち夫婦とほぼ同世代の夫婦世帯がほとんどだった。
このアパートで長男は生まれた。(正確には、里帰り出産だったけれど・・・・)
私は、初めての子育てで、右往左往していた。いわゆる、孤育て状態だった。
だが、一緒のアパートに住む人たちにも、私の出産に前後して、次々、赤ちゃんが生まれた。それも、全て、第一子。おかげで、同じような状況の人たちが身近にいることとなった。
その中の、Tさんとは、子供が生まれた時期も近かったこともあってか、特に親しくなった。Tさんは子供の情操教育に熱心で、ぼーっと子育てしている私にとって、良い刺激になり、たくさんのことを教えてもらった。
中でも、乳児期から絵本を読み聞かせるために絵本の定期購読を始めたことが、その後の長男にとって、とても良い影響を与えたように思う。

(つづく)




(※)新婚時代は小さなアパート、子供が生まれて少し広めの賃貸住宅に住み替え、会社で役付きに出世して分譲マンションを買い、最後にそれを売却して庭付き一戸建てを手に入れ“一国一城の主(あるじ)”になって上がり」  


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2019年07月04日

結婚当初の東京での住まい

結婚した当初(1980年頃)、別居していた。

夫は、東京の設計事務所勤務を始めたばかり、私は学生で愛知県内に住んでいた。相当イレギュラーな新婚生活だった。

私は、1畳あたり1000円、4畳半で4500円、お風呂もトイレもキッチンも共同、電話はピンク電話の呼び出し。おまけに男子禁制の女子寮の1室を借りていた。ただ、広い前庭があり、番犬が走りまわり、部屋には日が燦燦とさし、畳や家具がやけた。そして前庭の前の隣地は畑だった。

夫の住まいは、世田谷区三軒茶屋、広い敷地の一角に建てられた木造2階建ての借家。その1階だった。多分、固定資産税対策のために建てられたものだろう。8畳一間に狭いキッチンとトイレのみ。お風呂は銭湯だった。家賃は 3万数千円だったと思う。(30数年前のことである)

夫は新たに得た仕事で海外プロジェクトの担当になり、連日夜遅くまで家には帰らず、長期で海外に出張することも多く留守がちだった。

長期の休みには私も東京で過ごしたが、夫はほとんど家にいないので、一人東京の借家に居ることが多かった。田舎育ちで、華やかな街にさしたる興味もなく、特段楽しさも感じられず、そこかしこで漂う様々な都市の臭いに辟易とし、東京暮らしは”苦”でしかなかった。

建設会社の設計部へとアルバイト(今でいうインターンのようなもの)に行ったりしたが、通勤時のギューギュー詰めの地下鉄では、しばしば、痴漢に遭遇し、ストレスのせいで顔中、吹き出物だらけになった。
知合いができる機会もなく、”人間の密度はやたら高いのに孤独である”ことを体験した。多様な物や情報はあふれているが、それらを自分の生活に活用できないでいた。都市の豊かさを活かすにはそれなりの意欲、熱意(もちろんお金も)が求められるのだと感じた。私にはそれが欠けている。東京(というか大都市)は私には向いていないと実感した。

大学で、東京の田園調布を例にした都市計画の講義があった。
大正時代に、イギリスで提唱され、レッチワースで実践された田園都市構想をモデルとして、渋沢栄一の息子秀雄が中心となって、開発された田園調布。富裕層の住宅地として開発された。
東京への急激な人口、産業の集中は、田園調布の土地価格を高騰させた。資産価値は上がっても、自己用住宅のみの利用では、固定資産税の上昇により負担のみが増加する。そのため、固定資産税対策のために、多くの宅地では、敷地の一角に借家を建て始め、相続時には切り売りするようになった。結果徐々に土地の細分化が進み、人口の高密度化が進み、レッチワースとは異なる様相の都市となっていったことを学んだ。
東京での住まいは田園調布ではなかったが、借りていた家は、多分、固定資産税対策で建てられた小さな借家。母屋には、高齢の夫婦が住んでいるのみだった。田園調布の住宅地と同様な経過を踏んでいるようなお宅だった。

レッチワースと田園調布の大きな違いは、土地の所有形態。レッチワースは開発組織を母体とする街のマネージメント組織が土地を所有し、個人では所有しない。他にも違いは色々あるが、原則、経済原理のままに土地利用が進む都市と、都市づくりの理念実現のために土地利用が強くコントロールされる都市との違いが、現在の田園調布とレッチワースの住環境に顕著に表れている。
東京の高密度化は、独特の都市文化を生み、ある種の魅力として評価されているようだが、私には向いていない。快適に人が住める場所だとは思えない。

とはいえ、二人の息子は、東京の大学に通い、一人は今でも東京で働いている。息子たちの学生時代の住まいは、6畳一間、ミニキッチンと狭いユニットバスが付いた、ワンルームマンションで概ね7万だった。若い息子たちにとって住環境は二義的な価値のようで、機能性と効率性が大事だと考えているよう。
結果的に、人を東京に集中させ、学費や生活費という形で、毎月相当な金額を東京に投資し続けたことになる。

若いころ感じた”東京は私には向いていない”という感覚は、東京に行く度に変わることは無く体にまとわりつき、どんどん強化されているようだ。

  


Posted by ordinary H at 17:12Comments(0)建築全般1980年

2019年07月02日

食品の保存と備蓄

今回も食品の保存と備蓄について、思いつくままに

今の家庭における食品の保存箇所の代表格は、冷凍冷蔵庫だろう。
パントリーを設ける住宅も増えてきてはいる。
防災用のために、ローリングストック等により1週間分の食品の備えが推奨されている。人数にもよるが、結構なボリュームになる。
だが、きちんとした食品ストックスペースを確保できている家は少ないのでないだろうか?

私も、食品の備蓄や管理が苦手である。
備蓄食品を無駄にすることなく、使い切れないことのほうが多い。
必ずと言ってよいほど、賞味期限切れ(それも、1年越えくらいは当たり前)にしてしまう。
一応、建築設計のプロで長らく主婦でもあるのだが、使いやすい位置できちんとローリングできるように食品をストックできる環境を整えられていない。何とかしなければとは思っているが、どうも、苦手である。

子供の頃、農家でもあった我が家は、米の保存のためのスペースが大きかった。
物置小屋の中に、亜鉛鉄板でできたドラム缶のような玄米の保存器が置かれていた。
1年分の米を自分の家でストックしていた。
その米を、集落の共同施設である精米小屋に持ち込み、精米していた。
(当時の保存法だと、7月、8月ごろの米は確実においしくはなくなっていた。
時として、コウクゾウムシ(穀蔵虫)がわき、米をとぐと幼虫が水の中でうごめいいてギョッとした。だが新米のおいしさは格別に感じられた)

芋穴(90cm四方、深さ60cmくらい)が軒下にあり、モミが入れられ、その中でサツマイモやジャガイモ、サトイモが保存されていた。
小屋の軒下には、玉ねぎが干されていて必要に応じて使っていた。(最後のほうは、芽が伸び始めて萎びてしまっていたりしたが・・・・)

田んぼの畔で育てられた大豆は、一部は枝豆として食べ、残りは干されて大豆になった。
(枝豆のさやの中には、虫が入っているのは当たり前で」、煮豆をつくる時、虫食いの大豆をより分けるのがお決まりの作業だった。)
ソラマメは、乾燥されて、ストーブで炒って冬のおやつになった。

夏には、庭でとれた梅で梅干しをつくり、新ショウガを酢漬けにして紅ショウガを作った。
(冷蔵庫なしで保存できるものである)

冬は、軒下に白菜が新聞紙に積まれて置かれていた。また、大きな樽で白菜漬けが作られた
大根は干されて、一部はたくあんに、ほかは干し大根になった。
時として、古漬けのたくあんや蕪のつけものが煮ものになった。
(母はこれらをこなしていたわけである、改めて、大したものだと感心する)

そして、一番の食品のストックスペースは畑だった。
(汚れや虫食い不揃いが当たり前で、口に入れられるようにするまでに、相当、手間暇がかかるが・・・・)

買い物がままならない環境、時代だったので、備蓄食品で、日々の食事は概ね賄われていた。

母が、2人目の出産に際し、私の家に手伝いに来てくれた時
狭いアパートの造りに、ちょっと閉口しながらも
必要な時、必要な分だけの食品を徒歩で買いに行ける環境を喜んでいた。大きな冷蔵庫が、家にあるみたいだと言っていた。
確かに、我が家の畑より近い位置にスーパーマーケットはあった。
(当時の我が家は、徒歩2分のところに1件、徒歩5分の所に1件、スーパーマーケットがあり、マンションの向かいに小さなお菓子屋さんがあった。これらの店は、やがて、徐々に閉店していくことになる。)

私は、そんな生活が当たり前だと思って暮らすようになった。

小さなスーパーや食料品店が淘汰され、自動車を使わなければ、買い物さえままならなくなった今、食品の備蓄と保存について、もう少し住宅側で工夫が必要だと感じる

食料のストックを、家の中だけに限らず、庭などの屋外も含めて改めて考えてみると面白いかもしれない。




  


Posted by ordinary H at 19:22Comments(0)自宅歳時

2019年06月28日

洗濯のこと

洗濯について、思いつくままに。

物心ついた時には、家には洗濯機があった。勝手口の外に置かれていた。
洗濯石鹸を溶かした水の中を、ぐるぐる衣類が回るだけの、一漕式でローラーを手でまわして洗濯物を絞る形式のものだった。
時々、洗濯を手伝った。すすぎは外流しのたらいで3回やるように母に言われ、手で絞って干していた。我が家を改修する頃(1970年頃)までそうやって洗濯していた。排水設備もなく、自然浸透で排水を処理していた状況だった
姉は、家庭科の時間、自分の家の洗濯の方法を授業で説明したら、先生に笑われたと憤っていた。だから、私は、外では洗濯については話さないでおこうと思ったことを覚えている。

家の改修を契機に、我が家の洗濯機が脱水機のついた2層式に変わった。すすぎも洗濯機ででき、洗濯を干す作業も格段に楽になり、洗濯は嫌な手伝いではなくなった。
洗濯機はやはり外に置いていたが、排水管もきちんと敷設し、排水は道路側溝に流すようになった。(この頃から、洗濯石鹸ではなく洗濯洗剤が普及し、柔軟剤なども使われるようになったことを思うと、色々、考えさせられるのだが・・・・トイレも水洗に変わり、浄化槽はあったが、当時のことだから当然、単独浄化槽だった。最近まで、実家はこの状態が続いていた。ムムム・・・)

結婚して、最初に入ったアパートの洗濯機置き場はベランダだった。その後、公営アパート、民間マンション、一戸建てへと住み替えることになるが、洗濯機は家の中に据えるのが当たり前の環境になった。

子供がおむつの時、紙おむつは使わず、布おむつでとおした。(紙おむつは、まだ、それほど普及していない時期でもあった)家の中でおしめの処理をするのは結構大変な作業だった。密閉された狭い室内で汚物を処理しながら、そこを清潔に保つことの大変さを経験した。
その昔、おしめは川に洗いに行ったと母が言っていたのを思い出した。おしめ洗いの大変さを言っていたのだとばかり思っていたが、川に流してしまえるメリットがあったのだろうと気づく。川に流せばよいのかと言われれば、これもムムム・・・・であるが
今は紙おむつが当たり前だから、始末しにくいものを”ごみ箱にポイ”できる環境は、子育てを結構楽にしてくれていると思う。

子育て期間中、洗濯物は結構大量だったが、家の中での作業であり、苦ではなかったが、雨の日には干す場所に苦労した。乾燥機はあまり普及していなかった。干して乾かすのが当たり前だと思っていた。
今、ベランダに洗濯ものなどを干せないマンションも増え、家庭に乾燥機があるのが当たり前になってきた。太陽や風ではなく、電気やガスに依存する方法には、正直、私はどうもなじめないでいる。といいつつ、我が家にも乾燥機はあるのだが・・・

都市景観への関心が高まり始めたころ、ある大学の先生が、マンションやアパートのベランダに干された布団や洗濯物を、忌み嫌うような発言をしていた。理解できる面もあるが、私は、最近特に、イタリヤやスペイン等の都市の下町の風景でよく見る、窓から物干し竿を持ち出し、おおらかに道路上に洗濯物を干しているたくましさにあふれる庶民の生活風景に親近感を感じてしまう。
”生活感あふれる風景”は見苦しいものなんだろうか?結論的には、”場所”によるのだろうが、暮らしにとって絶対必要なものを風景や身近な環境から忌み嫌ったり遠ざけないで済むと良いと思う。

実家でも、結婚した後も、家庭においては、洗濯はほぼ女性の仕事だった。
洗濯が楽になることは、女性の自由時間を増やしてくれることに直結してきたと感じる。
環境への負荷をあまり増やすことなく、生活に不可欠な洗濯という行為を、さらにスマートにこなせるような暮らし方を、ちょっと考えてみるのも面白いかもしれないと思う。


子供の頃、洗濯で使う外流しの水道がよく凍結で破裂した。家に両親がいないときにおきると、元栓を占め、ささっと応急処置をすることはよくやっていた。おかげで、今でも、ちょっとした水道のトラブルならたじろがずに対応できる。”住宅の仕組み”を体感し”住宅になじんで使いこなす”ことが、最近はあまりなくなっているように思う。照明の点灯や消灯まで言葉だけでアレクサにお願いするような暮らしも、なんだかな~、と古い人間は思ってしまう。

  


Posted by ordinary H at 18:12Comments(0)ファシリティ

2019年06月26日

テレビと住まい

我が家の場合、オリンピックの時には、我が家にもテレビがあったことを覚えている。
アポロ11号のニュースも 白黒で見た。ただ、1970年大阪万博の映像はカラーでみた太陽の塔の印象的な姿と色をテレビで見たことを覚えている。
テレビは居間に一台のみで、一家団欒の中心にはテレビがあった。真空管テレビで大きさもそれなりにあり、存在感があった。
小学校高学年(1970年)のころ夢中になってみていたTV番組は、「巨人の星」、「アタックNO.1」 「サインはV」等のスポコン漫画。
親も子も一緒になって見ていた。「8時だよ全員集合」も、「何が面白いんだか」とくさしながらも、親も一緒に見ていた。父親が絶対譲らなかった相撲中継を、「何が面白いんだか」と思いながら、私も見ていた。

テレビから得る情報は、親も子も共通だった。親は子供が何に興味を持っているのか、子は親がどんな物や事が好きなのか、一緒にテレビを見たり、チャンネル争いを通して、何となく知ることができた。

テレビは草創期、テレビは「不特定多数の人を集めることのできる」存在だった。
それが、各家庭に普及し「家族のだんらんの中心」へと変わっていった。
そして、その後、ほぼ一人一台とも言えるほどテレビが普及し、やがて、テレビが家庭の中で団らんの場面を創る機能は小さくなっていった。
今、情報化によるインターネットの普及により、テレビ離れが進んでいる。
テレビに変わる、一家団らんの道具立てや空間を、住まいの中にきちんと、設えられているのだろうかと考えてしまう。

住宅を設計していて、今のところ、テレビの存在は、まだまだ大きい。テレビは、住宅のある固定した位置、そして一般的には寛ぎの空間とセットで設置する。設計者もクライアントも、それが当たり前だと考えてはいる。(住まいのある種のプロタイプとして、私たちの世代には刷り込まれている)。

だが、最近の実際の住まいの使われ方を思い起こしてみると、家族それぞれが、自由に好きな場所でスマホ等のタブレット端末を使って、個別にゲームをしたり映像を見たりする。、そんな風景が普通になってきている。誰が何を見ているのか、何に関心を持っているのか、把握することは難しい。家庭の中での個別化が、より一層進んでいる。たとえ同じ空間に居ても、共通の体験の蓄積は確実に薄くなっている。家族のコミュニケーションを促したり、共通の体験の蓄積を増やすための空間や設えを工夫することが必要なんだとは思うが、その答えを見つけることは中々難しい。ただ、もう”テレビのある居間や食堂”に依存していてはいけないのだと思う。


学生寮(1975年)に入っていた時、ラウンジにはテレビがあった。16インチくらいの大きさで、白黒だった。ほとんど見る人は居なかった。(その頃、家庭のテレビがカラーに変わっていた)暇なときは、おしゃべりやトランプなどのゲームが娯楽だった。大学の時の下宿、部屋にテレビは無かった。アンテナの配線さえ来ていなかった。一人でいるとき、ラジオパーソナリティの語りが癒しだった。会話がいまよりもっと大事だったし、密度が濃かったような気がする。

そういえば、小学生の高学年の頃、教室にテレビが設置された。ただ、ほとんど見ることはできず、教育テレビのいくつかの番組をみたことだけを記憶している。(1年で数回である。)ほとんど、無用の長物、オブジェと化していたが、教室にテレビがやって来た時には、クラス全体で大騒ぎしたことを覚えている。ほんの50年程まえのことである。まだ、もう少し生きることになると思うが、情報化がさらに進み、テレビ離れした世代が社会の中心になったとき、住まいはどんな風に変わっているのだろうか、結構、興味がある。








  


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2019年06月21日

ささやかな文化との触れ合い 

子供のころ、美術や音楽など文化とのふれあいはほとんどなかった。

我が家にあった文化的要素は、私が小学校高学年の頃、父が気まぐれに購入した「日本文学全集」(確か、50冊くらいのセット)くらいのものだった。(〇〇全集といった場所を取るの何十冊ものセット物の本が、訪問販売で盛んに売られるようなった時期だと思う。)

二葉亭四迷、樋口一葉、森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、志賀直哉、横光利一、伊藤整、谷崎潤一郎、井上靖、岡本かの子、島崎藤村、有名どころ著者の本が、書棚にずら~と鎮座していた。
よくわかりもしなかったが、何となく手に取り読んでいた。何人かの作者のものは途中で挫折したりしたが、「楢山節考」(深沢七郎)や「山椒魚」(井伏鱒二)、「赤蛙」(島木健作)など、印象に残る本に出合えた。父も手に取り読んでいたようだったが、母が詠んでいる姿は見たことは無かった。

絵画については、我が家は、不毛の環境だった。竹久夢二の本が一冊あったのは覚えているが、絵らしきものは、床の間に正月にかけられる「鶴と日の出」の掛け軸くらいのものだった。
そして、本物の油絵を見たのは、父が香港土産で買ってきた香港夜景の絵である。、土産物で売っていたものだろうが、とりあえずプリントではなく、油絵具を使っていた。(と思う。油絵具の臭いがしたことを覚えている。)
中学生の時、西洋絵画のプリントが、なぜか中学校の廊下で業者さんが来て販売した。風景画のものを買ったことを覚えている。多分、コローの絵だったと思うが、なんとなく気にいって買った。コローは、好きな画家なのかかといわれると、今は実は違うのだが・・・。無難なきれいな絵を買っただけで、自分の趣味や嗜好を意識することさえなかった。

絵画について、主義や流派、画家の名前などに関心を持つことは、大人になるまでなかった。
教科書に載ってる絵画や画家の名を、勉強として記憶した。

初めての美術館体験は、高校2年の時の修学旅行で行った大原美術館だった。
その時観た、カリエールの「想い」に惹きつけられた。絵に感動した初めての体験だった。




今は、美術書を読んだり、美術館を行くのが趣味の一つになっている。絵画や彫刻等の芸術に対して、自分なりの嗜好を持つことができ、楽しみ方も少しはわかるようになった。時代や環境の変化に感謝したい。

ただ、木々や花、風景、魚や野菜の色彩や形態の豊かさ、複雑さに心惹かれることはあるが、それを、絵画に表現しようという意欲が湧くことは、今でも無い。こればかりは、どうしようもない・・・・。

建築を勉強する過程で、美術体験の少なさ、そして、3次元空間を把握する力と、それを具体的に絵にする力のなさが大きなコンプレックスになった。経験や訓練で、図面を読むことはできるようにはなった(と思う)が、空間として把握することに今でも苦労する。
(そのため、最近、身近に使えるようになった、3Dのモデリングツールは、私には夢の道具のように感じられる。)

音楽について
私はオルガンの演奏に挫折した(音楽教室に通うのが嫌だった)し、音痴なため、演奏も歌うのも苦手。
でも、音楽の成績は悪くなかった。音符を覚えるのは、嫌いではなかった(何の役にも立たないが)。

音楽は、もっぱら、テレビで聞くものだった。つまり、歌謡曲。
父は村田英雄が好きで三波春夫が嫌いで、母は美空ひばりが好きだった。
家では、洋楽は聞かない。もちろんクラッシックも。
中学生になるころ、父が、中古のレオーディオセットを手に入れてきた。それが、田の字型の畳部屋の一角に置かれた。
ところが、レコードを手に入れる方法が無かった。レコードショップは、自分で行ける範囲の場所にはどこもなかった。
父は、何枚かのレコードも併せて譲り受けてきていたが、演歌やムード歌謡の類だった。中学生が聞きたいものではなかった。
プレーヤーに付属しているラジオを聞いているだけの状況が、長らく続いた。
初めて自分で買ったレコードは「ナオミの夢」(ヘドバとダビデ)どうやって手に入れたか覚えていない。ただ、それもやがて飽きた。

巨大なレコードプレーヤーセットがあっても、ラジオを聴くぐらいした使えない状況が長らく続いた。高校生になって、初めて、ラジカセを手に入れた。ラジオから、一生懸命に好きな歌手の音楽を録音し、マイカセットレコーダーを創った。
そして、大学、社会人となるに従い、新しい音楽メディアがどんどん提供され、音楽は安価で身近なものになっていった。
いまや、あふれかえる音楽情報の中から、自分の嗜好にそったものを、どうやって選択していくかのほうが難しくなった。

私は、かなり、不器用で、あまり、意欲的な性格でもない。
そして、我が家は、始まりは、いわゆる「文化的な機会が豊富な家庭」ではなかった。そして、当時として、とても普通の家庭だったと思う。
だが、高度経済成長という経済的豊かさを多くの人たちが、徐々に獲得できる環境の中で、少しづつではあるが、色々な文化的な体験の機会を増やすことができてきた。。幸せな時代を生きてこれたのだと思う。

そして、住宅には、装飾品や設備機器等、機能性だけでない様々な文化的要素が取り入れられ、それぞれの家庭が、個性を発揮できるようになってきた。
だが、時として、あふれかえる、モノや情報をうまく取捨選択することができず、混沌を引き起こしている家庭がとても多くなっているようにも感じ、とても気になる。これからは、自分なりの視点、軸がより大切になってくるのだろう。



  


Posted by ordinary H at 18:32Comments(0)自宅家族のこと

2019年06月14日

木は生もの

わたしにとって懐かしい臭いの一つが、木材の臭いである。
製材の鋸が木を挽いていくときや、皮を剥がれた時に発する湿気を帯びた、木は生ものだと感じさせる独特の臭いである。

家の向かいが木材置き場で、大きな丸太が置かれていた。子供の頃、家の周りは、木の臭いが満ちていた。

父たちの会社は製材所から始まった。

我が家は、故郷はの濃尾平野の北西の端っこに位置する。
多分、根尾や徳山等揖斐川上流の山から木を伐りだして、製材していたんだと勝手に想像している。
(父も亡くなって、今となってはわからない。聞いておけばよかった。)

会社はやがて、建築工事が主な事業となっていったが、製材業も、父が仕事を辞める平成10年頃までは少なくとも続けていた。

たしか、中学生になるころだったが、丸太を載せた大きなトラックが、北からではなく南から頻繁に堤防を走り、工場にやってくるようになった。
外材が、多く輸入されるようになった時期と重なる。木は山からでなく、海から運ばれるようになった。
木材には、見慣れないツボのような貝殻がついていた。なんだか、臭いも違っていたように感じる。

父から聞いた話。
山の木がお金になるのに、植林してから最低30年かかる。できれば50年おきたい。一生懸命植林しやっとお金になるころに、輸入材が流通し始めて原木の値段は下がってしまった。山の木には、それまでかけた手間に見合う額を払えなくなってしまった。
子供が大学に行くので、山の木を売りたいといわれて見積もっても、十分な額が払えなくて、がっかりさせることになってしまっている。
もし、作道が整ってないと、足が出るくらいになり、買うことさえ断ることになる。と

これでは、馬鹿らしくて、山をやる人はいなくなるだろう。といっていた。そして、その通りになってしまった。
山は、少しづつ少しづつ、荒れていった。

今、地域産の木材の利用が推奨され、状況の改善に向けた努力はされているとは思うのだが、山の中の道を走る度に目にする状況は、ますますひどくなっているようにしか感じられない。暗然とした気持ちになる。

父は、よく国の営林署に入札に行って、樹齢何百年の木を仕入れてきていた。
国の山から、樹齢何百年のスギ、ヒノキ、ケヤキや銘木類が切られ、ヘリコプターで運ばれて来たものを入札して買うのである。(数百万するものも多かったらっしい)そんな木が、材木置き場に置かれていた。

木は長い年月をかけて育つ。途中、色々なことがあったのだろう、挽いてみて傷や節があることもある。だが、木は色々な使い道がある。自分たちで、その木をいろいろな目的に使うようにするから、無駄にしなくて済むのだと誇らしげに言っていた。
ただ、流通に適する、規格品の木材だけを扱い、よそに売るだけの商売だったら、そうはいかないだろうとも。

バブル経済の頃、宗教団体などが、こうした、高額の木を買い占めるようになり、こうした木は高額に、なりなかなか入手できなくなった。
宗教法人では、外側の白木部分は腐らせ、赤身だけを使うことを知って、もったいないことをすると憤っていた。

そして、今、自分が設計する時、特に仕上げ材において、無垢材を使うことは、コストや技術的な問題等で難しいことが多い。
よくて集成材や練付け、多くの場合、合成材やプリント材を仕様書に書き入れることになる。
(当たり前のことかもしれないが)規格品・流通品で、仕様を決め、設計する。

木は生物なんだから、傷はあっては当たり前、一本一本違うものであることを、前提にした設計は出来ないできた。
すこし、情けない気分になる。(今回は、なかなか、言いたいことが文章にできない、これも、情けないことだ。)



  
タグ :木材設計


Posted by ordinary H at 13:11Comments(0)建築全般

2019年06月10日

子供のころを、思い出すままに。

子供の頃の思い出すこと、ダラダラと書いておく。

5月の鯉のぼり。タンスには鯉のぼりがあったことは覚えているが揚げられたことはなかった。集落で競争して派手なことをするようになることを避けるために、揚げないように決めたのだと、母が言っていた。(お互い目立つことを避けようとする、独特の雰囲気があったようだ・・・・その割には、結婚だけはやたら派手だが)
ひな人形は、そもそも我が家には無かった。ただ、母は家にある、こけしや博多人形など、ありあわせの人形を、座敷に段飾りのように飾ってくれたことを覚えている。(1度か2度だけだが)  

私の普段の主な遊び場所は、屋外ならば、川原や堤防の土手、田んぼの中の道とその脇を流れる用水路、そして、大工小屋だった。大工小屋では、何人かの大工のおじさんが、木を刻んでいた。そこにある、おが屑、木端が遊び道具だった。そして、時々、酒のつまみのような乾きものをおじさんたちからもらって食べていた。(その頃の大工さんには、小屋の隅に酒瓶を置いて、時々、湯飲みで酒を飲みながら仕事している人もいた。決して、柄の良い人たちばかりではなかったが、邪魔にされることもなく、そこに居させてくれた。)

私が子供の頃、特別なおもちゃは無かった。その辺にあるものを、使って遊んでいた。ただ、小学校低学年の頃、タミーちゃん人形とリカちゃん人形が流行った。近所の女の子たちが買ってもらって遊んでいた。持っていないと仲間外れのようにされた。そのことを知ってか、母はタミーちゃん人形を買ってくれた。そして、着せ替え用の洋服をミシンで縫ってくれた。それがうれしかったことを覚えているが、仲間外れにされたことのほうが強く記憶に残ってしまっている。小さな集落で、お互いよく知っていても、いじめのようなものは必ずおこった。特別悪い人がいるというわけではないのだが、人間とはそういうものだと、何となく、だんだんと感じていった。(今もその時のことで傷ついているということを書きたいのでは無い。うまくいえないが、そういうものだということを前提にして生きてきたし、だから、興味深い。と大人になるうちに思えるようになっていった。)

小学校に入ると、一応、子供部屋が与えられた。決して、最初から、子供部屋として用意された場所ではなく、子供机が置きやすい位置を見つけて、そこを子供部屋(のようなもの)として使っていた。ただ、宿題は、リビングでテレビを見ながらの勉強がもっぱらだった。親も勉強せよとはほとんど言わなかった。通知表は見せたが、テストを見せたことをなかった。塾にも行くにはいった。小学生の時の塾の定番は、そろばん、習字、オルガンで、その内、一つか二つに、みんなが通っていた。私は、オルガンは挫折したが、そろばんには通った。学校帰りに塾に立ち寄るのだが、結構さぼっていた。

学校以外はほとんど自分の時間だった。小学校中学年くらいになると手伝いの役割はあった。私の役割は風呂掃除と風呂沸かし、それと冬のアンカの準備だった。火を焚くのもお風呂に入るのも、冬のアンカの温かさも好きだったので、苦も無く、好きでやっていたように記憶している。

私が子供の頃は、家庭において、”子供”は決して第一優先の存在ではなかったように思う。そして、それは、決して子供にとって居心地の悪いものではなかったように感じるのだが・・・どうだろうか?

そして、今、自分も子供を産んでみて、確かに子供は宝のような存在だとは思うが、子育てに”ゆるみ”や”適当さ”が無くなって、かえってだれもが窮屈に生きざるを得なくなっているように感じる。自分が子育てをするとき、良い意味での”いい加減さ”が欲しいと思ったし、実際、結構いい加減だったように思う。知り合いのお母さんたちからは、異質な人のように見られることもあった。が、まあ、まあ、まともに子供は育ったと思っている。

住まいにおいても、子供部屋という概念は、戦後、急速に一般の住宅に広がった。(※) 私も建築の勉強を始めたころから、住宅といえば、個室とパブリックスペースのゾーニングとその動線をどう配置するかをまず考えたし、子供部屋の配置を結構重要視していた。仕事をしていても、日当たりやプライバシーについて、子供部屋を最優先にする家庭が結構多い。最近は、夫婦中心やパブリック空間中心の考えの人も増えてきているとは感じるが、建売や分譲マンションのプランを見ていると、戦後広がった、夫婦+子供2人を対象にした、ある種のプロトタイプ的な住まいの考え方が根強いことを実感する。核家族がさらに進み、単身者が急速に増えていっている時代に合って、これらのストックはうまく使われていくのだろうか? なんてことまで、考えたりしている。

(※)ウイキぺキアより
「日本でも、太平洋戦争後、ベンジャミン・スポックの『スポック博士の育児書』がしつけのバイブルとして紹介され、独立心を養うために子供たちは別室で寝起きさせるように、という見解が広まり、また高度成長期の経済の興隆と共に、住宅の中に子供部屋を最初から設けるということが、徐々に広まってきた。」






  


Posted by ordinary H at 19:01Comments(1)家族のこと歳時

2019年06月07日

結婚  ~家と花嫁道具の準備~

故郷周辺は、”娘3人嫁に出すと身上がつぶれる”と言われるほど、結婚に関する行事は派手な地域だった。

姉は花嫁道具を、紅白幕で飾られたトラックに乗せ、嫁ぎ先に持参した。
お婿さんは次男で、新築の家を用意し、姉を迎えた。
だから、それに見合う花嫁道具を持ち込んだ。
その頃定番のタンスの3点セットに鏡台、ベッド等の家具一式
それに鍋釜食器はもちろん、家電製品一式
加えて、車も紅白幕の車に乗せ、運んでいった。(車は、すでに姉が乗っていたものだったが・・・・)

タンス類には、着物や洋服等、衣装を一杯に詰めて持参した。

持参する前には、我が家で花嫁道具のお披露目があり、近所の人が見に来た。
もちろん、嫁ぎ先でも、同様のことが行われた。
(近所のおばさんたちは、タンスや洋服ダンスの中身まで遠慮なく見ていった。おまけに、来た人たちに、来てくれたお礼としてお菓子の袋詰めを配っていた。これは、私にとって、自分の住む地域に対するある種のカルチャーショックだった。)

恥ずかしくない準備をするために、母は一生懸命になっていた。

当時、家持ちの次男坊で非農家というのは、結婚相手として好条件と言われていた。
私たちが年頃の頃、結婚相手の条件に「爺抜き婆抜き、家付き一戸建て」ということがよく言われた。
その場合、嫁に行った先で、娘に肩身の狭い思いをさせないために、それ相応の、準備を花嫁側の親には求められた。
(後々相続の際もめないよう、財産分与の意味合いもあるのかもしれないと、今は感じている。)

兄の結婚に際しても、兄嫁は同様に、花嫁道具を持参した。
ただし、我が家の場合、兄は長男だったので、2LDKほどの離れを庭の一角に新築しただけだったが、その家からはみ出るほどの花嫁道具がやってきた。故郷周辺の家々では、長男の嫁とりに際しては、離れを新築する場合が多かった。
その時も、近所のおばさんたちが、離れにやってきて、遠慮会釈なくタンスの中身や道具類を見ていった。

父は、「”家持ち”と結婚しなければ、自分の家を持つために一生苦労することになる。」とよく口にしていた。
1975年頃から、都市郊外で盛んに宅地開発が行われ、”家付き一戸建て”を購入することがサラリーマンの大きな目標となった時代になっていた。故郷周辺でも、田んぼだったところに、同じプラン、同じ外観が並ぶ分譲住宅が盛んに建設されるようになっていた。父たちの会社でも、分譲住宅を建て販売するようになっていた。父は、それを購入する人たちが、今から比べると結構高利な住宅ローンを払って苦労している姿を見て、言ったのだと思う。

だが、私の結婚に際しては、3男で家のない(おまけに職もない)相手だったのに、父も母も何の反対もせず、認めてくれた。

家や土地や物を受け取ることと舅姑等からの干渉が表裏であることを姉の結婚で経験したせいかもしれないが、何らかの心境の変化が、私の結婚までに起こっていたようだ。
どうも、一通り経験してみたら、世間体を気にする結婚の行事は、どうでもよくなったのではないかと、私は感じている。
まーそれに加えて、私の性格に対するあきらめもあってかもしれない。


  


Posted by ordinary H at 17:30Comments(1)自宅家族のこと歳時

2019年06月06日

祭り・歳時 ”神様関連”

故郷での神社のお祭りは4月。

この神社、来振神社(白山神社とも呼んでいたように記憶しているのだが・・・・)これが、正式名らしい。
そもそも”白山”と呼ばれるのは、山が石灰質のため、山肌が白く見えたためらしい。

故郷は濃尾平野のフリンジのような場所にあり、北へほんの1km程、平野から山へと地形が変わるその山が白山だった。
過去形で語るのは、今は、その山はほとんど無くなってしまったからである。

白山は周辺が良質の石灰岩であり、明治時代から周辺で石灰採掘が始まったという。
そして、私が物心ついたときには、住友セメントの大きな工場が川向うの隣町にあり、我が家の隣の堤防から高い煙突がよく見えた。
(故郷で思い出に残る印象的なランドマークはこの煙突だったりするのが、今となれば少し寂しい気分になるが、子供の頃は当たり前のものとして見ていた)
山を採掘した石灰岩は、ベルトコンベヤで川を渡り、隣町の工場に運ばれ、セメントになっていった。
(中学生の頃、資源のない日本において、セメントだけは国内で自給できる資源だと教えられたとき、妙に納得したことと、ほんの少し誇らしい気分が沸いたことをを覚えている)
そして、今、白山はほとんど削られ、平地になりかけている。

以前は、来振(白山)神社は白山の山頂(標高317m)鎮座していた。
石灰採掘のために、1968年(昭和43年)、白山は石灰採掘のために削られることになり、白山の麓の現在地に移転した。

社殿も参道の鳥居や灯篭も、すべて鉄筋コンクリート造の、当時としては珍しい神社である。
(移転は、住友セメントの補償として行われたからだろうと勝手に想像しているが、個人的には奇妙な雰囲気を醸し出していると感じていた。)
その建設工事は、父たちの会社が請け負ったようだ。
当時、父たちの会社も、鉄筋コンクリート造の工事を手掛けるようなっていた。そのころ、コンクリートは、今のように、セメント工場からレディミクストコンクリートを運搬してきて打設するのではなく、現場でセメントと砂、砂利を調合して打設していた。そのため、コンクリート打ちの時には、お握り等の夜食を用意するなど、現場は大騒動だった。(木造の場合の建前のような雰囲気だったことを記憶している) 

4月のお祭りは
山車やお神輿が出るといった、華々しいものでは無く、ただ、親戚が集まり、ご馳走を食べるものだったと記憶している。新家の我が家は、私の子供の頃は、特に誰が来るわけでもなく、その意味合いもよく理解できていなかった。大人になってから知った、各所の伝統的なお祭りと比較すると、極々、簡易なお祭りだと感じるが、盆と正月の他、故郷にみんなが集まる機会として”お祭り”が大事な役割を果たしているのだと、実感している。

白山に関わる歳時として、思い出深いものに”山の神さん”という行事がある。
白山神社の祭神は、白山比咩神(菊理媛神)で、その神様にゆかりの行事らしい。

12月中頃(色々調べると、12日らしい)に、集落みんなで、お餅をつき、大きなぼた餅にして、山にお供えに行く。
そして、そのぼた餅と赤みその豚汁をみんなで食べるというものだった。餅つきの場所と準備は集落内で持ち回りの当番だった。
仕事で、色々な地域を訪れているが、山の神の行事は各所で行われているとは聞くが、このような”ぼた餅”と”豚汁”を振舞う行事は故郷以外聞いたことも見たこともない。

この行事も、最近やらなくなったと、兄から聞いた。(年末の忙しい時期、もう大変だから、やめたらしい)
よくよく、考えてみれば、山が無くなったわけだから・・・・当たり前か。



  


Posted by ordinary H at 16:55Comments(0)自宅歳時