2019年06月06日
祭り・歳時 ”神様関連”
故郷での神社のお祭りは4月。
この神社、来振神社(白山神社とも呼んでいたように記憶しているのだが・・・・)これが、正式名らしい。
そもそも”白山”と呼ばれるのは、山が石灰質のため、山肌が白く見えたためらしい。
故郷は濃尾平野のフリンジのような場所にあり、北へほんの1km程、平野から山へと地形が変わるその山が白山だった。
過去形で語るのは、今は、その山はほとんど無くなってしまったからである。
白山は周辺が良質の石灰岩であり、明治時代から周辺で石灰採掘が始まったという。
そして、私が物心ついたときには、住友セメントの大きな工場が川向うの隣町にあり、我が家の隣の堤防から高い煙突がよく見えた。
(故郷で思い出に残る印象的なランドマークはこの煙突だったりするのが、今となれば少し寂しい気分になるが、子供の頃は当たり前のものとして見ていた)
山を採掘した石灰岩は、ベルトコンベヤで川を渡り、隣町の工場に運ばれ、セメントになっていった。
(中学生の頃、資源のない日本において、セメントだけは国内で自給できる資源だと教えられたとき、妙に納得したことと、ほんの少し誇らしい気分が沸いたことをを覚えている)
そして、今、白山はほとんど削られ、平地になりかけている。
以前は、来振(白山)神社は白山の山頂(標高317m)鎮座していた。
石灰採掘のために、1968年(昭和43年)、白山は石灰採掘のために削られることになり、白山の麓の現在地に移転した。
社殿も参道の鳥居や灯篭も、すべて鉄筋コンクリート造の、当時としては珍しい神社である。
(移転は、住友セメントの補償として行われたからだろうと勝手に想像しているが、個人的には奇妙な雰囲気を醸し出していると感じていた。)
その建設工事は、父たちの会社が請け負ったようだ。
当時、父たちの会社も、鉄筋コンクリート造の工事を手掛けるようなっていた。そのころ、コンクリートは、今のように、セメント工場からレディミクストコンクリートを運搬してきて打設するのではなく、現場でセメントと砂、砂利を調合して打設していた。そのため、コンクリート打ちの時には、お握り等の夜食を用意するなど、現場は大騒動だった。(木造の場合の建前のような雰囲気だったことを記憶している)
4月のお祭りは
山車やお神輿が出るといった、華々しいものでは無く、ただ、親戚が集まり、ご馳走を食べるものだったと記憶している。新家の我が家は、私の子供の頃は、特に誰が来るわけでもなく、その意味合いもよく理解できていなかった。大人になってから知った、各所の伝統的なお祭りと比較すると、極々、簡易なお祭りだと感じるが、盆と正月の他、故郷にみんなが集まる機会として”お祭り”が大事な役割を果たしているのだと、実感している。
白山に関わる歳時として、思い出深いものに”山の神さん”という行事がある。
白山神社の祭神は、白山比咩神(菊理媛神)で、その神様にゆかりの行事らしい。
12月中頃(色々調べると、12日らしい)に、集落みんなで、お餅をつき、大きなぼた餅にして、山にお供えに行く。
そして、そのぼた餅と赤みその豚汁をみんなで食べるというものだった。餅つきの場所と準備は集落内で持ち回りの当番だった。
仕事で、色々な地域を訪れているが、山の神の行事は各所で行われているとは聞くが、このような”ぼた餅”と”豚汁”を振舞う行事は故郷以外聞いたことも見たこともない。
この行事も、最近やらなくなったと、兄から聞いた。(年末の忙しい時期、もう大変だから、やめたらしい)
よくよく、考えてみれば、山が無くなったわけだから・・・・当たり前か。
この神社、来振神社(白山神社とも呼んでいたように記憶しているのだが・・・・)これが、正式名らしい。
そもそも”白山”と呼ばれるのは、山が石灰質のため、山肌が白く見えたためらしい。
故郷は濃尾平野のフリンジのような場所にあり、北へほんの1km程、平野から山へと地形が変わるその山が白山だった。
過去形で語るのは、今は、その山はほとんど無くなってしまったからである。
白山は周辺が良質の石灰岩であり、明治時代から周辺で石灰採掘が始まったという。
そして、私が物心ついたときには、住友セメントの大きな工場が川向うの隣町にあり、我が家の隣の堤防から高い煙突がよく見えた。
(故郷で思い出に残る印象的なランドマークはこの煙突だったりするのが、今となれば少し寂しい気分になるが、子供の頃は当たり前のものとして見ていた)
山を採掘した石灰岩は、ベルトコンベヤで川を渡り、隣町の工場に運ばれ、セメントになっていった。
(中学生の頃、資源のない日本において、セメントだけは国内で自給できる資源だと教えられたとき、妙に納得したことと、ほんの少し誇らしい気分が沸いたことをを覚えている)
そして、今、白山はほとんど削られ、平地になりかけている。
以前は、来振(白山)神社は白山の山頂(標高317m)鎮座していた。
石灰採掘のために、1968年(昭和43年)、白山は石灰採掘のために削られることになり、白山の麓の現在地に移転した。
社殿も参道の鳥居や灯篭も、すべて鉄筋コンクリート造の、当時としては珍しい神社である。
(移転は、住友セメントの補償として行われたからだろうと勝手に想像しているが、個人的には奇妙な雰囲気を醸し出していると感じていた。)
その建設工事は、父たちの会社が請け負ったようだ。
当時、父たちの会社も、鉄筋コンクリート造の工事を手掛けるようなっていた。そのころ、コンクリートは、今のように、セメント工場からレディミクストコンクリートを運搬してきて打設するのではなく、現場でセメントと砂、砂利を調合して打設していた。そのため、コンクリート打ちの時には、お握り等の夜食を用意するなど、現場は大騒動だった。(木造の場合の建前のような雰囲気だったことを記憶している)
4月のお祭りは
山車やお神輿が出るといった、華々しいものでは無く、ただ、親戚が集まり、ご馳走を食べるものだったと記憶している。新家の我が家は、私の子供の頃は、特に誰が来るわけでもなく、その意味合いもよく理解できていなかった。大人になってから知った、各所の伝統的なお祭りと比較すると、極々、簡易なお祭りだと感じるが、盆と正月の他、故郷にみんなが集まる機会として”お祭り”が大事な役割を果たしているのだと、実感している。
白山に関わる歳時として、思い出深いものに”山の神さん”という行事がある。
白山神社の祭神は、白山比咩神(菊理媛神)で、その神様にゆかりの行事らしい。
12月中頃(色々調べると、12日らしい)に、集落みんなで、お餅をつき、大きなぼた餅にして、山にお供えに行く。
そして、そのぼた餅と赤みその豚汁をみんなで食べるというものだった。餅つきの場所と準備は集落内で持ち回りの当番だった。
仕事で、色々な地域を訪れているが、山の神の行事は各所で行われているとは聞くが、このような”ぼた餅”と”豚汁”を振舞う行事は故郷以外聞いたことも見たこともない。
この行事も、最近やらなくなったと、兄から聞いた。(年末の忙しい時期、もう大変だから、やめたらしい)
よくよく、考えてみれば、山が無くなったわけだから・・・・当たり前か。